20161229

The Paradox of Unstable Stability

  腹をくくってアメリカから脱出(?)してからあっという間の3ヶ月です。ちょっとした勇気さえ出せば、人生はどんな様にもなるみたいです。東京の友人や郡上で会った人からしてみれば、当然私達がしたことは無謀な強行プランだということは重々承知しております(汗)私の両親なんかは、もうこの夫婦は何を言っても無駄だな、、、という半ば諦めの境地にて私たちを見ています。

  ただ母だけは、私一人になると、否応にも仕事のことやら、この先の人生のことを淡々と矢継ぎ早に質問してくるので、それをどう躱そうかと近頃は私のほうがやや必死になっている。そういった問い質しは、私達を心配してのことだとは十分に理解しているが、そこで「いや、安定を目指すところに生きてないの。私たちはむしろその”不安定”を使いこなしながら生きるのが好きなのですよ。」なーんてふざけて答えようもならば、家中は大騒ぎになってしまうそんな年の暮れ。

  それにしても実家にいると時間はたんとあるので、こぞって武術関連の本をなどを読んでいる喪女な私です。体の使い方はもちろんのこと、やはり身体動作の「安定」と「不安定」のバランスなどについてよくよく考えているところです。

  私の母がお教のように唱えている「安定」っていったいなんなんでしょうか、、、? ”安定した何か”というものは、どうしても言葉のイメージだけが先行しやすいし、一見良いことのようにも聞こえるのだけれど。ひたすら安定を求めることに固辞してしまうと、体の自由が利かなくなるのは当然のことで、例えば武術の世界ではそのことを「居つく」と言うらしい。そして敵(恐れ)を前にして固まれば、それが相手に読み取られた隙には命も落としかねないわけで、、、。

  自分自身の経験でいうと、実は人間の歩くという行為もまたこの「安定」と特に「不安定」というものが大変なキーになってくる。10年も前に一度歩くことができなくなった私は、ひたすら”歩く”ということをずっとこの10年間探求し続けているのだけれども。事実、歩くことは継続した安定運動ではないです。矛盾しているようだけれども、歩くことこそ不安定そのもので、安定を崩し、途中アンバランスな状態ができることで、はじめて人間は一歩、そしてまた一歩と歩くことができるということを私は身をもって学んできたつもりです。

  試しに皆さんもゆーっくり、いつもの10分の一くらいのスピードで時間をかけて歩くことをしてみてほしい。身体がバランスを失う瞬間に勝手にもう片方の足が前へ出ることにきっと気づける瞬間があるのではないかと思います。

  毎度のことながら、身体の学びを人生哲学に置き換えることとは何事じゃ!という反応もあるかと思うのですが、私にとってはもはや確信的な事実なのです。で、面白いことに生きる道が不安定な環境下であればあるほど私の場合は自分の核心、平たく言えば自分が信じていることがよりはっきりと明確に分かる。

  そうそう、郡上へ来たのも「なんとなくの勘です〜。」なんて答えているのだけど、それは何かを濁したり、ふざけたり、その質問から逃げようとしてるわけではないんです。勘というのは、だって見えないようで見えているもっとも自分らしい予測なのかな?と思ったり。どこまでふらついても、自分の感覚を用い揺るぎない何かに従って生きていくことだけは何故か得意なのかもしれないなぁと思う。

  でももちろんそう言い切れるのも、信頼できる皆様からのたくさんの応援あってのことです。本当にいつもありがとうございます。2017年もこの安定と不安定の狭間でしなやかにバランス良く生きていけたらと思っております。そしておかげさまで郡上で住む家も無事見つかりましたので、2月にはそちらのほうへ引っ越すつもりですよ。桜が咲く頃にでもぜひぜひ岐阜へ遊びに来てくださいね〜! 

  それでは皆様、良いお年を!



Sky and Water I by M.C Escher 1938


20160805

Things Aren't Always What They Seem


日本から戻り1ヶ月ほど経ちました。今や私にとって第二の故郷となってしまったサンフランシスコ、こちらは8月だというのに例年のごとくとてもとても寒い夏です。

”今日も風が強いですわね〜”
そんな挨拶を交わす近所のおばあちゃん達を横目に、この冬の日本海のように荒れすさむサンフランシスコ湾を今日も寒さで縮こまりながら散歩する私です。

東京、本当楽しかったなぁ〜(ハァ、ため息)

いつものことですが、この帰国で私はやっぱり東京が 切に好きなんだということを心の奥底から感じました。そしてその気持ちは増してゆくばかり。住環境、労働環境はさておいても、やはりなんだかんだでそこに居る「人」が本当に大好きです。だってある次元から見れば(ここポイントです)あの街はどんな者であろうと受け入れる、そういったオープンマインドネスな姿勢を備えているのですからね。

数年前に帰国した際、頭の上でトーストを焼きながら歌って踊るアバンギャルドなセクシーお姉さんに会った。去年は車に特大オブジェを飾り、街中を滑走するめちゃめちゃカッコイイ華道家/芸術家のお兄様に出会った。そして今年は新宿3丁目辺りで背徳な美学を享受されている素敵な方々にお会いすることができ、私の知的好奇心は大いにくすぐられた。

兎にも角にも突拍子もなく、良い意味でクレイジーな人達に出逢える格好の場:それが東京なのです。

でも、え?あんたの住んでるサンフランシスコのほうが断然そうでしょうよ!?と突っ込まれそうですが。うん、全米でも変人奇抜な人が集まっている 都市であることはほぼ間違いないのですが、interesting!という意味で私を驚かせてくれる人々は断然東京のほうが優っていることを身を以て実感しています。だって非凡具合が違うんですもん。

サンフランシスコの人はいくら非凡であったとしても、必ずその人はどこかのグループには属せてしまう気がする。それはどういったことかというと(あくまでも私の個人的見解ですが)、この場所は非常に分かりやすく5種類くらいの人間の定型句があって、そのグループによって見た目の姿形、ファッションから思考パターンまで大凡同じなんじゃないかなと言い切れます。そして大変失礼なことを言ってしまうと、一見オープンな感じを装っておきながら実はとても自閉的であり、それが本気でつまらないことだわな〜とも思ってしまうのです。

要するに自分とよく似た価値観を持った人同士でグループを成すことでなんらかの安全結界のようなものを張ってるようで、それで自分の存在価値みたいなものを担保している部分があるようなのだけど、、、この安心且つ自然な成りゆきであるはずである”それ”が、私にとっては恐怖でしかなく、正直ここに住んでいると息が詰まりそうです。まぁもちろん自分自身がそもそも変わり者であることを前提に置いての話ですけどね。すみません。

でも本当に東京にいると毎日全く新しい価値観との遭遇がありまして。

どこかで知らない誰かに話しかけると、"Whaaat!!!???"となるような瞬間があり、それがとてつもなく楽しい。ある種の価値観摩擦のようなものの多発地帯であって、そこから本当に面白いものが日々生まれているのだな〜なんてワクワクしてしまいます。

「東京の人は冷たい」なんてことよく聞きますがが、本当にそうなのでしょうか?
私からすればあれほど”人に優しい”街がそれ以外世界のどこにあろう?と思ってしまう。

一見閉鎖的であるかのように見えて、実はとても寛容的。自分の真ん中に芯を据えながら軽やかに、そして流動的に生きていける場所なのかなぁと思います。



Andrew Wyeth/1984
Christina's World

20160403

ON HEALTH by Moshe Feldenkrais

”健康である”ということは、一体どういったことなのでしょうか?病気をしていない人のことなのか?体に痛みや不調がない人のことなのか?または、悩み一つない人のことを指すのか、、、?

  ”A healthy person is one who can live fully his unavowed dreams."
  
  "健康な人というのは、内にある夢に精一杯生きれる人である。”

これは、モーシェ・フェルデンクライス博士のON HEALTHという学術論文の序文からの引用で、この論文の中で彼はたくさんの遠回りをしながらも驚くような”健康”の定義付けをしてくれている。私はこの小論を何度も何度も読み返してはたくさんの新しい発見をしているので、今日はそれをみなさんにシェアしたいと思う。

論文の中で、まず博士は "Life is process." - 人生は止むことのないプロセスであると述べ、「動的状態」=休憩をうまく入れつつも常に変化をし動いている状態こそが健康の基盤であると主張している。つまりそれは常にエネルギーや活気に満ち溢れた状態であるということ。そしてその次に、”Health is capacity to recover from shock" - "健康とはショックから回復できる能力である”とも記述されていて、これはおそらく英語の「Resilience」という言葉がそれに相当するものかと思う。ただ単に回復するということではなく、例え苦しい状況に追い込まれたとしても、はね返るように挽回できる人のことを言っているのではないかと。

そしてそれらのことを考えたときに真っ先に思いつくのが恐縮ながら私の夫のことなのですが。彼はその博士の言う”unavowed dreams"=内なる夢、自分が信じていることを追いかけては時に打ちひしがれ、また懲りずに追いかけるというまさに変化に富んだ人生を歩んできた人なのです。


せっかくのいい機会なので、彼の破天荒人生をざっくりとここに書き出してみます。(時系列):調理師見習いからはじまり、彫刻家、自転車屋の店員(in 大阪アメ村)、英語教師、建築家弟子、ホームレス、パタゴニアにて漁船乗組員(本人曰く地獄)、ブエノスアイレスにて商社マン、ライター、ダンサー、そして現在、樹木医/映画監督となるわけです。


これを器用貧乏又は飽きっぽい人と言ってしまえばそれまでなのですが、止まることなくこれら全部のことを己に正直に全力でやってきたと思うと頭が下がる。そして自分のことながら、5年前にこんな人を夫に選んだでしまったのだから、もう一傍観者どころではなく、彼の成長のプロセスの真っ只中に私自身もいるということになる。


ちなみに博士は論文の最後に、世間の多くの人は自らの成長と共に自分の得意なことをもっと梳り極めようと切磋琢磨していくのが一般的だが、そうではなく、その人生過程の中で自分の「夢」が常に改変されていくことこそが健康な状態なのではないかとまとめている。


「健康」という言葉自体を考えた時、実は日本語においてのその言葉の歴史は浅い。そして調べてゆくと、英語のHealthの語源はギリシャ語のHolos - ”完全な状態”に起因すると出てきた。だとすると、やはり私たちはその「Whole=完全さ」を日々求めながら多種多様に富んだ人生をワクワクと生きているのかもしれない。


そんなことを考えながら、夫に今までの人生で一番ワクワクした章はどれか?と尋ねてみた。この人は例え天地がひっくり返っても「君と一緒にいる今この時だよ」なんてロマンチックなことは言ってくれない。「うーん、ホームレスかな、、、?」と言った後しばらく間をおいて、「いや、まだだな。これからなんじゃないかな?」といったので、私は隣で冷や汗をかきながらも、その返事が最も彼らしい答えだと思ったと同時に、とても”健康”な人と結婚できて本当に良かったと心から思えたのだった。




Cows, Yellow-Red-Green, Franz Marc



                                   


20160201

The Process of Perpetual Learning.






  柔道家、三船十段の映像です。確かな柔道の心得と経験を持ったフェルデンクライス博士でさえ、初めてこの三船氏の動きを見たときに「これはただの馬鹿げた演技だろう、こんなものにつき合ってられん!」と思ったらしいのです。だけれども、それが後に彼自身の考案したメソッドに多大な影響を与え、結論として「力が強い者が勝つではなく、よりまわりとの統合性の高い者が最後には勝つ」という考えを導き出しました。

 さて、話は変わって一昨日のことです。私の親友ワカちゃんが、森のラヂオという番組のリンクをyou tubeで送ってくれて(ワカちゃん、nice pass!)、そこにゲスト出演していた井上博斗さんという方の話がそれはそれは興味深かった。


 井上さんは即興Jazzミュージシャンの傍、わらべうた(自然童謡)の伝承をライフワークとしている方だそうで、あらゆる民俗音楽の音楽祭なんかもたくさん主催されているようです。話し方だけでとても知的な人だということがすぐ分かる、きっと”青雲の士”というのはまさにこういった青年のことを指すのだな。(しかもハンサムだ!^^)

 そして彼は現在、岐阜県の郡上八幡に住まわれていて、いかに私たち人間が自然に近い場所に身を置くことが大切かを実に面白い観点から話されていた。

 井上さん:「人間って衣・食・住だけで生きていない。精神的なものも内在していて、そしてそれが住む場所によって大きく影響される。具体的な暮らしの知恵はもちろん大事だけれども、自然のきらめきや移ろいから物語が生まれるんですよね。(中略)自然に放り込まれるということは、いろんなものとの介在があるんです。そこにはものすごい「あやふやな型」があって、例えば一歩間違えば死んでしまうような、そんなぎりぎりを味わいながら子供達は遊ぶのが楽しいしいんです。川があり、草があり、山があって、子供たちがそこでありとあらゆる実験を経たときに、はじめて創造的なものをプロデュースできるんじゃないかと思っています。」

 彼の話を全てここに書き出したいくらいですが、この箇所が 一番今の私にとってはとても印象的だった。なぜなら私は根っからの都会育ちで、最近もし自分が大自然に囲まれて育ったならいったい今どんな人間になっていたのだろう?ととてもつまらないことを考えていた最中だったからです。


 私の幼少期の原体験として、”自然の中にいた”という経験はゼロに等しいと言っても過言ではない。うちの両親はアウトドアなどにもさらさら興味がなかったので、はじめてキャンプなどにいったのも19歳の時に渡米してから。小さな頃の遊びは、もっぱら日が暮れるまで友達と缶蹴りやドロ警をして走りまわったり、ファミコンをしたり、近所の野良猫を追っかけたりという感じ。

 身の危険なんてたかが知れていて、車に轢かれないようにとか、電車は白線の内側で待つようにとか、名前も顔も知らないおじさんについていってはいけないとか、、、。詰まるところの「とても簡単で明確な型」の中で育ってきたのだ (”自然”とは対義的なニュアンスで井上さんもそう述べていた)。今振り返ると大きな一つの社会のシステムの中で、他にオプションがあることさえにも気づかずに、大きな力の渦に巻き込まれて生きていた。自分が自分であることも忘れ、特にこれといった身体を通しての学びもなく、感覚統合的に見たらとても乏しいとも言える環境の中で育ってきたのではないのかな?

 だから内心大自然に囲まれて育った人がうらやましいところもある自然風景のひとつひとつからの感動は自分の心の中しっかりと蓄積されてゆくものだと思うし。そしてその美しさ/危険をはらむ”あやふや”な場所に身を置くことは自分の身の程を知るには恰好な場であることに間違いないからです。

 さて、話が遠回りになりましたが、、、

 三船十段(当時73歳)がビデオの中でいとも簡単に大男を投げ飛ばしてしまえる理由はもうわかりましたよね?

 ”統合性が高い”という意味は、人が一人間としていかに自分が機能しているかに注意が向いてることだと私はフェルデンクライス博士の本などを読んでそう理解しています。そして自然の中に身を置くことは、それを全うするのにはとても良いセッティングであると断言できます。

 けれど結局の所、今自分が行ってることに気づきさえできる環境と条件さえあれば、人はそのポテンシャルを最大に引き出して、止むことなく成長し学習し続けることができるということです。

 井上さんの場合、そのプロセスは自然に身を近づけること、そして「歌を唄うこと」だとラジオ内ではっきりと言及されていた。三船先生の場合は、それが柔道という道を極めることだった。そして私は言うまでもなく「フェルデンクライスメソッドを学ぶこと」、それに尽きます。

 要するになんだって良いのです。そして何個あったって良いのです。

 あなた自身を「終わらない学習」へと導いてくれるもの、、、それらはいったいなんですか?