20141203

サッカーの世界

   日本からこちらへ戻って来てちょうど6週間ほど経ちました。物理的に肉体はサンフランシスコへ戻って来ていても、私の頭と心は飛行機のスピードについてゆくことが難しいのか、ようやく太平洋をゆっくりと渡りきり、再び私の身体へと同期されたようです。日本での約一ヶ月間、毎度新しいところへ出かけ、新しい人に会い、そこそこ欲張りな私はひたすらインプット活動に明け暮れていました。サンフランシスコ生活からはあまりにもかけ離れた非日常なので、あれは夢だったのか?と思うくらい、キラキラしているのだけれど薄ぼやけている思い出達。そういえば、シンガポールにもいったはず。とにかくいろいろな事があったのですが、滞在期間中最も印象的だった(=良い意味で頭をハンマーで殴られるような感じだった)出来事を書き出すとこういった感じになります:1、神楽坂「石かわ」でのお料理。2、藤田博史先生の量子論的精神分析WS。3、合羽橋商店街での金物フェア。4、初めて乗った女性専用車両の空気感。5、東京都現代美術館での特別展示:『新たな系譜学を求めてー跳躍/痕跡/身体』、以上の5つです。
 
 1〜5番全てをフェルデンクライスにつなげて書ける自信はそこそこあるのですが(笑)、今回は5番の現美の展示について書こうと思います。この展示は今も開催中で、狂言師の野村萬斎さんをアドバイザーに迎えてのexibitionになります。ざっくり言ってしまうと、人間の「身体」を通して、まじめにアートとパフォーマンスを考えるというもの。古典芸能、ダンス、演劇、スポーツにいたるまで、身体パフォーマンスをテーマとした、絵画、映像、インスタレーションのお祭り展です。コンセプチュアルなものが多かったですが、その中で私が最も釘付けになったものが、サッカー選手のジネディーヌ・ジダンが、試合で見せたプレーや表情をひたすら数十台のカメラで追いかけるという映像作品。元サッカー選手の中田英寿さんによる解析videoと合わせてのセット展示になっているのですが、もう本当に素晴らしかったの一言に尽きます。
 
 私はサッカーというか、全くと言っていいほどスポーツ全般に疎く、あまり興味が湧かないので、このセクションは見る前からスルーだろうな(汗)と思いましたが。結果、一番釘付けになってしまった。大画面いっぱいに写されたジダン選手の動きがあまりにも美しすぎて、ただただ圧倒されてしまっただけでは到底済まされない話。それはアフリカの草原で肉食動物が獲物を捕らえるような、あまりにも生々しい空気感。そして交互に繰り返される必要無駄(フェイント)と無駄一つない優美な身体使い。その後の中田選手の解析インタビューもこれまたBravoでした。恥ずかしながら彼が話している姿を聞くのは初めてだった私なのですが、ものの数十秒で、あ、この人はとても感覚的な人!ということがすぐに分かりました。グラウンド上における身体感覚と空間認知の話、ジダン選手の身体を動かすタイミングとリズム感、意識と無意識、1秒にも満たない0.何秒という時間世界の話を夢中になって聞いた。その場にいなくとも、話を聞いているだけで体感したような錯覚を得た時、もはや私の中でサッカーはただの球蹴りゲームではなく、高い芸術性を含む一種の神聖で神秘的な民族、宗教儀式のように感じた。神が”ボール”に宿る時、その場や空気に独特な緊張がもたらされる。そして選手たちはそのボールを媒介として自分達の身体の可能性を限界まで引き上げる。その事実を頭で理解した瞬間に鳥肌さえたった。あまりに興奮状態だったので、その気持ちのままアメリカ行きの飛行機に乗りたいと思った私は、横でやっていたミシェルゴンドリー展は考える間もなくパスをし、荷物をまとめて空港へ向かいました。

 展示は1月初旬まで。興味がある方にはぜひ足を運んで頂きたいです。特にフェルデン東京の皆様は必見!ちなみに現美のレストランのオーガニックカレー&オムライスは美味しいのでこちらもお見逃しなく〜。美味しいレストランやカフェって良い美術館には欠かせない要素ですよね。Have Fun!




20140913

余白のさきにあるもの

       私の住んでいるベリエリアにはいくつかのフェルデンクライス講師養成学校があるのですが、私は特に何の下調べもせずに、今のところを選びました。ところが実際に蓋を開けてみると、私の師、Paul Rubin氏は期待以上に面白い人で、彼の言う事為す事にとても共感が持てた。初めてクラスに行った時、おそらくこの人は根底にある人間性みたいなものが私ととても近い人なのかもしれないなと思いました。
 
  見た目はずんぐりむっくり、笑顔が絶えないチョコレートケーキが大好きな、やさしいおじちゃん。心理学のバックグランドがあり、フェルデンクライス歴は40年以上、今は亡きフェルデンクライス博士から直々に全てのトレーニングを受けたプラクティショナーの一人でもあります。
 
  彼のちまたでの評判はと言うと、とにかく話しが長い、止まらない、終わらないとのことですが、、、はい、実際にそうだと私も思います(汗) 話が長過ぎるために、「もしも僕がしゃべり過ぎてた際には、どうか何か当たっても痛くないような、柔らかいものを投げつけて」なんて愛嬌のある冗談を言ったり笑 とにかくどことなく愛らしい人!その上謙虚で偏見がなく、いつも直感的で詩的な楽しい話をしてくれる素敵な先生なのです。特にいいなと思うのが、例えば、自分にはもっとも縁の遠いようなもの、一見何の関係もない事柄を話にもってきては別の何かを説明してくれるのですが、それがなかなか面白い。私達聞き手がはっとさせられるような事を言うのが本当に上手な人。思わず心の中で拍手した回数は数知れません。
  
  学期やクラスごとに講師が変わる大学とは違うので、Paulとの付き合いはこの先あと3年も続いてゆきます。1年ほど経った今の時点で既にお父さん?おじいちゃん?とにかく家族のようなそんな感覚が私の中で芽生えています。で、前置きが長くなりましたが。そんな彼が私にプレゼントしてくれたアドバイスの中で最も心に残った出来事を今日は書いてゆきたいと思います。

  それは私がクラスでペアになり、交代でお互いの身体を触り合うを練習していたときの事でした。フェルデンクライスにはプラクティショナーが声のみで誘導していくグループレッスンATM(Awearness through movement)の他に、FI (Functional Integration)というプラクティショナー対クライアント1:1で、直接相手の身体に手を触れながら一緒に動きのレッスンを学んで行くものがあります。まだそれを習いたての頃、私はあまりよく知らない人の身体に触れることにとても臆病だった。そういった類いの職業(例えば、マッサージセラピストや理学療法士等)とは全く関係のない世界にいたし、経験が何もない私は必死になってただ先生のお手本を一生懸命真似ようとしていた。でも何度やっても残念な気持ちだけが残る。正しくできているのか?相手は気持ち良いと思っているのか??ただ触っているだけで実際何もできていないんじゃないか???ということに頭がいっぱいで、気づけば私のフラストレーションは最高潮に達していました。

 そんな私の心情を遠くから見兼ねたのか(たぶん頭から湯気がでていた)、Paulがこちらへ寄ってきて声をかけてくれたのです。How are you doing? その短い言葉を彼が言い終わる前に、私は今にも泣きそうな声でこう言い放った。「正直に言うと、自分に怒っています。自分が何をしているのかもさっぱりわからないし。ペアになってくれた相手に申し訳ない。練習とは言え、相手に全く何もしてあげられてないと思うととても悔しい。」そうすると、Paulはやさしくこう言いました。「あなた以外に自分が人に何もしてあげられていないだなんて言ってるのは誰?誰もいないでしょう。ペアになった相手との間にほんの少しの”余白”を持たせなさい。受け手にだって考えはあるんだよ、そこは自由に入り込ませてあげないと。自分一人で行き急いで完璧なものを提供しようなんてことはしなくていいんだから。遊ぶことを忘れないで、Have fun!」

 その後家に帰ってからも、Paulに言われたことをよくよくと考えてみた。強いて言うと、その「余白」の部分について。そうするとスルスルと私の頭の中で、いろいろな事が紐解けた。「余白」という事を考えた時、そういえば私の好きな絵画や音楽、映画や文学にもきっと同じ事が言えるんじゃないかと。私はいつだって受け手がイメージを膨らますことができる余白のある表現が好きで、小さな頃からもそういったものに惹かれ、たくさんの影響を受けてきたことに間違いはなかった。具体的に言うと、例えばこのSam Francis(大好き!)の絵のような送り手が受け手に何気なく何かを放り投げるような感覚のようなものに。

The Witness of Whale,1957 by Sam Francis
  受け手がその作品に入ってゆける余地があるかないかは、極めてわずかな時間で分かる気がする。そしてその余白はもちろん意図的につくられたものではなく、常に即興的で無意識的なところからきたもの。それはとても東洋的な美意識であるし、日本独自の美学で言えば、「間(ま)」の概念。私達日本人が見ず知らずのうちに感覚的に会得している、多くの芸事や作法に用いられる「間」がその余白に当たるものではないかと思う。

  そんなヒントをもらった翌日から、私は嘘のように人の身体に触れる事が怖くなくなった。それは私の心配事などはどうでも良い事だとがすぐに分かったから。フェルデンクライスの面白さはそのメソッドを超えたところにあるものだとつくづく思うことがよくあります。Paulがあの時私に教えてくれたことは表明上の明白なメカニカルな部分よりも、大事な事はいかにその相手との間に介在しているアートやヒューマニティだったりをどれだけ楽しむことができるかと言うことなのかもしれません。


20140705

脆さという美しさ

“Find your true weakness and surrender to it. Therein lies the path to genius. Most people spend their lives using their strengths to overcome or cover up their weaknesses. Those few who use their strengths to incorporate their weaknesses, who don’t divide themselves, those people are very rare. In any generation there are a few and they lead their generation. ”


-Moshe Feldenkrais
「あなたの中に本当の弱さを見つけて、それに負けてしまいなさい。そこに、あなたの才能を生かす道があります。ほとんどの人々は自分の弱点を克服するかすっかり覆い隠そうと力を尽くすことに人生を費やしてしまう。自らの弱点を受け入れることに力を尽くして、自身を分裂させない人、そんな人は非常にまれです。でも、どんな世代にもそのような人は少しはいます。そして彼らはその世代を導くのです。」
-モーシェ・フェルデンクライス


 この”新しい身体”になってもう実に8年という月日が経って、たくさんの人の助けがあったからこそ今日という日を何事もなく迎えられていることに感謝しています。元気になった今でこそ、それをとても意味のある人生経験として心に置いておくことができるけれども、身体が不自由になったことは確かに私の短い人生においての一大事件であったと思います、、、。本当に自分が生きているんだという事を痛感させられた出来事であったし、ありのままの人間に立ち返る瞬間が幾度となくあった貴重な体験だったとも思います。

 八年前、手術が終わってそのぴくりとも動かない自分の右手脚を見つめることは、当時24歳の小娘だった私には容易に受け入れることができない事実であったのは確かです。今思っても、あの時の自分がいったいどうやってその気持ちに折り合いをつけようとしたのか全くもって覚えてもいません、、、
 
 当時は日常のごく簡単なことでさえ、誰かに頼まなければ何一つする事ができなかった。そしてそれが本当に苦しくて恥ずかしかった。何も自分一人でする事が出来ないという事実から来る劣等感に押しつぶされて、自尊心の欠片もなく、私のself-esteemなんてもうおそらく海の底の底の底まで届くくらい低かっただろうと思います。

 そしてそれに拍車をかけるかのように、周りの人にはstay strong!=強くありなさいと言われ続け(私のためを想ってかけてくれた言葉だというのは十分に理解しています、ありがとう)、とにかく臭い物には蓋ではないけれど、自分が嫌で嫌で仕方ないものから目を背け、その感情を覆い隠すことに精一杯の力を注いでいたし、さらに言えば自分でその思いを覆い隠していることさえにも気づかない”心の麻痺”状態にもなっていたのかもしれません。

 でもこの8年という時を振り返ってみると、、、おそらく私の身体が目覚ましく回復し始めたのは、まさにその自分の脆さだったり、美しくない部分を見る作業を潔くし始めた頃からだったと思います。この”見たくないものを見る作業”、私はフェルデンクライスを通しての試みでしたが、もちろん始めの頃は恐怖以外のなんでもなかった。ただ時間が経つにつれてだんだんと、むむむ、これって実は面白いプロセスなんだなといった感情に変わってゆきました。

 そして調子に乗った私は(私を良く知っている方はご存知の通り)こうなったら、自分の劣等感の裏側にあるものを徹底的に解体してやる〜、と長年にわたって自分の中に押し込んでしまった、恥や恐れや深い悲しみにとことん向き合ってみる事にしました。でも、やはり初めはいつものクセでついつい戦ってしまう。少しでも嫌な気持ちを感じたら、さてどうこれを押さえ込もう、どう克服しよう、、、?という方向にどうしてもいってしまう。でもこれは勝負じゃないから、負けちゃえばいいんだから、とそこに意味があることを自分に何度も言い聞かせながらの道のりでした。

 そのかいもあってか、だんだんと自分を受け入れる体制になって、時間はかかったけれど最終的に本来の「自分」を取り戻せたのだと思います。自身のあるがままを容認したら、「自分はよくやっている」という気持ちが自然に芽生えてきて、自己肯定感に包まれるような感じ。そしてやがてそれが自分への思いやりだったり、愛おしさという素直な気持ちに繋がって、結果的に麻痺の回復に繋がっていったのかなと思われます。



            (fashion at the edge, Caroline Evans, p.189, "Dazed & Confused" photo by Nick Knight)
 

 昔々、旦那さんの本棚を物色していたときに出て来たイメージ。


   私達一人ひとりを”美しく”しているものっていったいなんなのでしょう、、、?


 この写真をを見る度に、それを今一度よく考えてみなさいと問いかけられてるような気持ちになります。



20140429

無為自然

  気づいたら1年目の講師養成トレーニングも終わり、全コースの1/4を履修した時点での私のカラダと心の変化はまずまずです。あえて図で説明するのなら綺麗なlinearな線ではなくて、もの凄い勢いで上がって、そして一気に下がってまた上がるという繰り返し。だけれどもその頂点点を全て線で結んでゆくとなかなかの右上がりなんじゃないかと思います。特に感情面の振り幅がものすごく、いきなりクラス中にまるで小学生のように泣きじゃくる事件が発生したり、、、いつからか”少々お騒がせな人”みたいな立場になってしまいました(汗)ただそのおかげで今まで以上にクラスメイトと繋がれた部分もあったのかと思います。

  さて、本題に入りましょう。前回の投稿で、フェルデンクライスは師弟関係のない自己探求的な学びだと書きました。言い換えれば、プラクティショナーとクライアント(生徒)との間にdialogueこそなくとも、そこにはいつも双方的なコミュニケーションと学びが繰り広げられているということです(又は私がそう勝手に思っている。)

  私自身大学を出てからずっと教員というお仕事をさせてもらっていたのですが(たった5年の教員人生です、ごめんなさい)、自分の経験からこの”双方的な学び”について考えると:「何か教える」ことは「何かを教わる」ことで、逆に「何かを教えられてもらっている」ことが無自覚に「誰かに何かを教えている」という相互作用みたいなものはよくあったのかと思います。でもこの絵に描いたような素敵な掛け合いみたいなものは実にぼんやりとしたもので、そもそも「教師だから何かを教えなければいけない」というエゴを捨てなければ、子供達は何も学ぶ事が出来ないのは本当で、そしてそれをさらにつきつめてゆくと結局「人は人に何も教えられない」というのが私なりの結論でした。

 そしてそんなことをフェルデン修行と重ねながら思い出していた時、昔の雑誌をペラペラとめくっていたら、画家の奈良美智さんのインタビュー記事を目にしました。奈良さんと言えば、”上目づかいでこちらをにらむ少女の絵”と言えば今や誰もが分かる作品かとも思います。そんな彼が学生生活の合間に先生からうけたさりげないアドバイス集がその”素敵な掛け合い”そのものだったので一部抜粋させてもらいます。

   
  ”芝生の上で昼食を食べていたら、先生に「その靴下の色、
 今描いてる絵よりいい色してる」、下宿の部屋を覗かれては
   「いつも描いてる絵より、この部屋全体のほうが奈良だな」
と言われたことが今でも僕の心に深く刻まれています。

       


 教育って、答えを持っている人が、持っていない人にただ与えるものではなくて、答えになりそうなものをお互いにキャッチボールしてゆくことがやはり本来の姿なのかな。

 特別なことをしようとしなくても良い。

いつかプラクティショナーになった時も、この心持ちをぜひ忘れずにいたいものです。
  

20140213

カラダの智慧ー”学び方を学ぶ.”

 フェルデンクライスメソッドを全く知らない人に簡単に説明するにはどうしたら良いのか?というディスカッションはクラス内でもよくあります。メソッドの解釈はいろいろなディメンションからアプローチできるぶん正直難しく、フェルデンクライス歴40年の私の師でさえ時折言葉を詰まらせるくらいです。おそらくプラクティショナーにとってそれは永遠の課題ではないかとも思われます。
 
  私自身も人の言葉を借りたり、自分の頭の中でいろいろ試行錯誤した結果、どうにかこうにか日英で説明できるようになってきた(?)のでしょうか、、、わかりません。でもとにかく手短に言おうとするならば、、、
  
 フェルデンクライスメソッドとは:「各々の人が自分の辿り着きたいゴール(目標)に近づくために、自分自身の体をいかにシンプルに効率よく、どうしなやかに使うかを探ってゆく自己訓練法。」というのが今の時点で一番しっくりくる解釈なのではないかと思っています。

 そして上記の釈義からも見受けられるように、このメソッドから利益を得られる人のスペクトラムというのは職業、年齢、性別関係なく非常に幅広です。現に私の養成学校のクラスメート達のバックグランドも本当にばらばらで、看護士、医師、理学療法士などの医療系をはじめ、マッサージセラピスト、ヨガ講師などのボディワーク系、それから俳優、歌手、パーカッショニスト、ダンサーなどのアート系とバラエティに富んでいます。

 では実際にクラスではいったい何をするのか?

クラスでは主に床に横になった状態、もしくは場合によっては椅子に座って行われ、Awearness Through Movement (ATM)というなんとも堅苦しい名前がついています(汗)横になり自分の体を頭のてっぺんから足先まで観察し、プラクティショナーの声の指示だけを頼りに体をゆっくりやさしく動かしてゆきます。動きのお手本は一切ありません、さらに言えば動き自体に明確な目的がない場合が多いです。というかここがフェルデンクライス醍醐味。耳からの情報だけを頼りにすること、そして生まれたての赤ん坊のように目的意識なくただただ遊ぶように動く事で、自分の中から”自発的”にでてくる体の動き/感覚を察知し、それをドミノの様に広大な学びへと連鎖させてゆきます。

 始めたばかりの頃はもちろんたくさんの戸惑いがありました。初めての授業は全くの「?」で、「いったいあれなんだったんだろ??」という悶々とした気持ちで帰宅。なぜなら見本もなく、筋トレでもストレッチでもないこの全く新しいものをいったい自分の中でどう処理して良いのかが分からず、過去の教育経験において「何かを見て、それに従ってやってみる」ということにどうしても慣れすぎている私は、「正しくできているのかな?」 と”そこ”に気をとられてしまい、全く集中できず、、、。単に自分自身の体の動きと感覚に目を向けてみるということが本当に難しく、思いグセ(習慣)というのはこんなにも私の学びを邪魔するのかと驚いたものです。

 でも「なんか好きだな〜。」という気持ちだけでクラスに通い続けたところ、回を重ねていく度にだんだんと自分の身体(ボディイメージを含む)を自分で緻密に知ることができるようになり、その頃から一つの動作とっても、驚く発見や全く新しい発想が生まれるようになってきました。決定的だったのは、「何が正しくて、正しくないのか」という思考枠から解放されたとき、思うように動かない右半身が実は面白いほど楽に自由に動く!と自分自身で気づいた事だと思います。自分がいつもしていることに”気づく”というのは、私たちが思っているよりもはるかに肉体、感情面への影響は多大なようです。

  それにしてもこの飽きっぽい性格な私が、フェルデンクライスだけは本当によく飽きずに続けているな〜と思うのですが、それを「何故だろう?」と考えた時、おそらくこの一見曖昧で宙に浮いているような感覚的な感じだとか、終わりのないフィロソフィアな身体探求ができるところ、精神的/心理的に作用してくるあたりがきっとツボなんだと思います。あとは何より師弟関係という教育軸なしに、自らの力で”学び方を学んでゆく”この方法が私にはとってはとても合っているようです。

20140105

はじめに

     ソマティックエデュケーション(心と体を分けない身体教育)の代表格の一つと言われる「フェルデンクライスメソッド」ですが、まだまだ世間での認知度はいたって低いように思われます。「フェルデンクライスっていったい何ですか?」と聞かれるたびに毎回wishy-washyととまどってしまっている私ですが、書く事でそれがぼんやりとでも理解できればなぁと思いこのブログを始めることにしました。一つ興味深いと思った事は、フェルデンクライスを通しての「経験」というのが私の想像を遥かに超えて皆さん異なる様なのです。実際インターネットでこのメソッドを検索してみても、どのページも顕著に説明が異なりますし、一緒に養成学校に通っているクラスメイト達も、当然このメソッドの効果に絶対の自信がありながら、各々のメソッドに対する解釈や考え方に大きな開きがある事にとても面白さや不思議さを感じます。なのでこのブログもあくまでも「私」というフィルターを通しての勝手な(?)見解になります。

      実際私自身がフェルデンクライスメソッドを人に説明する時は、自分の病からのリハビリ経験を踏まえてお話をする事が一番明快で皆さんのアタマにすっーと入っていく様です。でも私が最も伝えたいことはリハビリ経験云々ではなく、このメソッドがいかに単なる肉体訓練やエクササイズの類いを超えているかということです。医学的にも科学的にも証明されていながら、とてもユニーク且つ有機的な構造をもった自己訓練法。そこに神秘性など全くないと言う人ももちろん多くいますが、その理論や認識を超えたところにいきつく壮大なイメージが私の中にはあるよう思えて仕方ないのです。今後は具体的な事も含め、いろいろなディメンションから少しずつフェルデンクライスメソッドついてお話してゆければと思っています。どうぞよろしく。