20140429

無為自然

  気づいたら1年目の講師養成トレーニングも終わり、全コースの1/4を履修した時点での私のカラダと心の変化はまずまずです。あえて図で説明するのなら綺麗なlinearな線ではなくて、もの凄い勢いで上がって、そして一気に下がってまた上がるという繰り返し。だけれどもその頂点点を全て線で結んでゆくとなかなかの右上がりなんじゃないかと思います。特に感情面の振り幅がものすごく、いきなりクラス中にまるで小学生のように泣きじゃくる事件が発生したり、、、いつからか”少々お騒がせな人”みたいな立場になってしまいました(汗)ただそのおかげで今まで以上にクラスメイトと繋がれた部分もあったのかと思います。

  さて、本題に入りましょう。前回の投稿で、フェルデンクライスは師弟関係のない自己探求的な学びだと書きました。言い換えれば、プラクティショナーとクライアント(生徒)との間にdialogueこそなくとも、そこにはいつも双方的なコミュニケーションと学びが繰り広げられているということです(又は私がそう勝手に思っている。)

  私自身大学を出てからずっと教員というお仕事をさせてもらっていたのですが(たった5年の教員人生です、ごめんなさい)、自分の経験からこの”双方的な学び”について考えると:「何か教える」ことは「何かを教わる」ことで、逆に「何かを教えられてもらっている」ことが無自覚に「誰かに何かを教えている」という相互作用みたいなものはよくあったのかと思います。でもこの絵に描いたような素敵な掛け合いみたいなものは実にぼんやりとしたもので、そもそも「教師だから何かを教えなければいけない」というエゴを捨てなければ、子供達は何も学ぶ事が出来ないのは本当で、そしてそれをさらにつきつめてゆくと結局「人は人に何も教えられない」というのが私なりの結論でした。

 そしてそんなことをフェルデン修行と重ねながら思い出していた時、昔の雑誌をペラペラとめくっていたら、画家の奈良美智さんのインタビュー記事を目にしました。奈良さんと言えば、”上目づかいでこちらをにらむ少女の絵”と言えば今や誰もが分かる作品かとも思います。そんな彼が学生生活の合間に先生からうけたさりげないアドバイス集がその”素敵な掛け合い”そのものだったので一部抜粋させてもらいます。

   
  ”芝生の上で昼食を食べていたら、先生に「その靴下の色、
 今描いてる絵よりいい色してる」、下宿の部屋を覗かれては
   「いつも描いてる絵より、この部屋全体のほうが奈良だな」
と言われたことが今でも僕の心に深く刻まれています。

       


 教育って、答えを持っている人が、持っていない人にただ与えるものではなくて、答えになりそうなものをお互いにキャッチボールしてゆくことがやはり本来の姿なのかな。

 特別なことをしようとしなくても良い。

いつかプラクティショナーになった時も、この心持ちをぜひ忘れずにいたいものです。
  

2 件のコメント:

  1. これは教育に携わる者にとって非常に興味深い内容です。
    何かを教えるというのはやはりおこがましいね。
    子供の教育でもそうだけど、子供を教育するのではなくて、互いに学ぶのが本来の姿だろうなと。

    一つ道が開けた感じがする、有難う。

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    1. Taz Tattyさん、

      コメントありがとうございます。
      そういって頂けて嬉しいです。教える仕事の面白さは一生涯追求していけるものだと思います。
      そして駆け引き無しに、正直に身構えていられる。自分でいられるということが最大の魅力だとも思います。楽しんで下さいね!

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