20151024

遊ぶ心

  先日産まれたばかりだと思っていた姪がとうとう1歳の誕生日を迎えたそうだ。シンガポールに住む弟から時たまぶっきらぼうにLINEを介して姪の動画が送られてくる。去年は私の腕の中にすっぽりと収まるほど小さかった姪が、ビデオを再生するなり自力で立ち上がり、ダイナミックにふらつきながらも地面をしっかり捉え、自らの足で一歩一歩カメラに向かって笑顔で歩いてくるではないか。それを見て、”あ~、みーちゃんのこの1年間の学習はきっととてつもなく濃いものだったに違いない、、、”とひとり考えを巡らせていた。

 赤ちゃんというイキモノは実に面白い。だって彼らは特に誰からも教えられることなく、いつのまにか立ち上がり、やがてひとりで歩きだすのですから、、、。お母さんのお腹から出てきてしばらくの間は、床やベッドの上で寝転びながら自らの身体感覚を通して膨大な情報処理に追われる忙しない毎日。一見デタラメに動いているようでも、この時期の非言語学習(=自らの身体を通しての経験)、目的のない自由な遊びと試行錯誤は、やがて各身体部位の認知や発見につながり、それがまた自身の体の仕組みを理解してゆくことにつながり、、、とにかくゆっくりと時間をかけながら自らの身体を環境に適応させてゆく術を段階ごとに学んでいるわけです。

 あれ?膝を横かたむけると、お尻の近くの骨も一緒に同じ方向に傾くのね。Wait a minute!その大きな骨をそのままうまく使って床で転がせばお尻で座ることもできちゃった。あれれ、今度は膝をうまく使ったらその大きな骨を床から浮かすこともできる!Yes! これでパパやママのように2本足で立つことも遠い夢じゃない!、、、といったような具合の自問自答がきっと毎日のように起こっているのではないかと。で、ここで一つ興味深いことに、赤ちゃんはなにも「よし(気合!)、1歳になるまでに歩けるようになるぞー!」などと決して張り切って目標設定をしないこと。それは、まさに目の前にある自分の世界に没頭して遊びまくった結果故の”第一歩”なのだと。

 最近、世間ではやたらと「目標に向かってひたすら頑張ます!」みたいな風潮が評価されているのはなぜでしょうか?いや、私だって昔はどちらかと言えばそういった考えを持った人間だったのは確かですし、多少なりとのゴール設定は心の安定剤になる得ることも十分に理解しています。けどね、赤ちゃんが床の上でトライ&エラー繰り返しながら意味なくジタバタするように、ひとりの大人が楽しく遊んで踊るように生きることだって健全で健康な人間の証だと思うのです。プロセス重視だなんて、いたって目新しくもない言葉を使いたくありませんが、総じて何事も目標はあまり立てたくないなと思う今日この頃。

 でもいつものように何の柔軟性の欠片もない考えすぎな大人の脳みそは、結局「目標をもたいないことが目標です。」なぁーんて最後にはまた馬鹿げたことを言ってしまうのだけどね。














20150705

愛のiroとカタチ

   Book Review: " The Story of My Life" by Hellen Keller

 ヘレン•ケラーは超がつくほどの有名人ですので、私が敢えてここで彼女の半生を長々と説明する必要はあまりありませんが、もし一言で彼女について述べなさいと言われたら、「盲聾の身体でありながらも人生を色鮮やかに生きた女性、、、」とでも言いましょうか?しかしいろいろ調べていくと、どうやら秋田犬をはじめてアメリカ大陸に連れて来た人でもあるらしい。しかもkamikaze号って名前つけてたみたいなのですが^^そんなミニ情報、本当か!?まぁなんにせよ伝記なんかは、確か小学生の読書感想文で読んだような微かな記憶がありますが、自伝書があることを知ったのは今通っている学校の授業を通してでした。

 本そのものの構成としては、一見バランスが非常に悪いです。不均一な構成はおそらく、目の見えないヘレンが自身の膨大な記憶だけを頼りに文字にしているところからくるものだと思います。幼少期の記憶から遡っていくようなかたちで始まり、ある場面の人生体験やターニングポイントなどはとても事細かく鮮明に書かれていますが、ある場面は記憶が曖昧なのかどことなく端折られている感があります。ただそんなアンバランスや少々の読みにくさがあったとしても、今日ヘレン自身の言葉で綴られた彼女のインターナルジャーニーを原本で読めるということは大変貴重なことだと思います。

 私はこの本を読むにあたって、まず単純に「見えない、聞こえない、しゃべれない」というのはいったいどんな世界なのだろう?と頭の中で考えました。きっとそれは広い宇宙にひとり放り出されるような感じなのでは?と、、、仮に、もしも自分が同じ状況にあったとしたら、どう考えようが正常な精神状態でいられるはずはありません。

 でもそんな彼女の危機的状況救ったのが、かの有名なヘレンの家庭教師、アン•サリバン先生。この人がいなければ、ヘレンの人生は全く違ったものになっていただろうし、目の見えないヘレンの”何か学ぼう”という溢れんばかりの好奇心をを上手に汲み取り、たくさんの言葉のキャッチボールをしたサリバン先生に私は心から拍手を送りたいと思います。要するに相性の問題なのですが、本書を読んでいても彼女たちの掛け合いはとても詩的で美しく、ふたりの美的感覚が似ていることから生まれる目に見えないシナジーがなんだかとても面白いのです。

 本編中でもっとも心動いた箇所は2つ。1つはヘレンが7つの頃、この世の全てのものには実は”名前”があるという事をサリバン先生を通して知った時で、その事実が分かった瞬間、真っ暗闇にいた彼女の世界が徐々に色づき始める様子がなんとも愛おしい。そして2つ目はその事実からしばらくした後に、今度は具体的なモノやコトだけではなく、この世界には形も色もない抽象的な事柄があるということについて学ぶ場面です。

 それは例えば「愛」というものの意味について。

 それは当然モノの名前や意味を知ることよりもはるかに難しいわけです。目が正常に見えている私たちにでさえ、「愛」というものはとりとめのない漠然としたものなのだから、当然ヘレン自身の学びのフラストレーションは最高潮に達します。

 ヘレンはとにかくこの「愛」という言葉の意味を探るために、手当たり次第、触れるもの、感じるもの全てに「それは、愛?これは、愛?」と何度も先生に尋ねます。でも先生は首を横に振るばかりで一向に具体事例を示してくれない。でもある日、外で暖かい太陽の陽がをふたりを射した時、ヘレンは「もしかして、今のこれが”愛”ですか?」と先生聞きます、そしてサリバン先生はこう続けるのです。

 「愛というものは、今太陽が顔を出す前に空を覆っていた雲のようなものです。雲にさわることはできないでしょう?それでも雨が振ってくることは分かるし、暑い日には花も乾いた大地も雨を喜んでいるのがわかるでしょう?それは愛と同じなのよ。愛も手で触れる事ことはできません。けれど、愛が注がれるときのやさしさを感じる事は出来ます。愛があるから喜びが湧いてくるし、遊びたい気持ちが起きるのよ。ヘレン•ケラー (2004)奇跡の人 ヘレン•ケラー自伝 p.45 新潮文庫

------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
 
  私は本書を英語と日本語両方で2回読んでいます。けれども2回ともこの場所で自然と一旦本を閉じてしまう。この場面を読み終えると、たくさん満足感でなんだかこの先は読まなくてももう十分だという気持ちにいつもなってしまうからです。

  今まで30何年と生きてきて、漠然と「愛」というものについて考えたりしたことはあると言えばあるけれど、どこか希薄めいた気持ちでそれを見つめている自分もあったように思います。でも最近はなんだか周り人からの”すばらしい愛”にとてもとてもとても恵まれているような気がして(感謝!)、私は当然目が見えるけれども、ちょうど幼いヘレンが愛について誠実に深い興味を抱いた時と同じように、私も後天的にこの「愛」というものがいったいなんなのかを今一度一生懸命学ぼうとしている最中みたいです。

 


         


20150325

ぶれにぶれて

 ぞろ目のアラサーにもなると日々どんどんと考えが凝り固まっていってしまうような感覚があって、je ne sais quoi...それがこわいようでこわくないような不思議。 例えば、これはこうゆーものだ!って考えがでてきたら、そのベクトルを打ち消そうと試みる自分がいたり。とにかく最近はとても場当たり的に生きていて、昨日正解だと思っていた事実が翌日には不正解になるような、そんなスポンテイニアス(?)な毎日を送っています。

 勉強しているボディワークにしたって同じことかもしれません。私はフェルデンクライスメソッドの哲学に惚れ込んで、もちろん誇りをもってそれを学び、人に教えるつもりでいるけれど、それだけを過信することはやめようって思うようにしています。プラスなんたってここサンフランシスコベイエリア(代替医療のメッカ)に住んでいるのだから、いわゆる” ◯ ◯(insert your name here) メソッド"と名付けられているものは、わりと積極的にありとあらゆるものを経験するよう心がけているつもりです。

 もう先月の話になりますが、友人のMaricoちゃんにポラリティセラピーをしてもらいました。初めてのポラリティーセラピー体験。私の体に触れているときに、彼女が「すいほちゃん、自分の体に注意がいきすぎているみたい、体の外(スペース)との係わり合いにも目を向けるといいよ」とアドバイスを頂いたのですが、その言葉がとてもいい意味でショックだったんです。そしてスペースの話が出た時に、ダンスがとても上手な彼女らしい素敵な言葉かけだなとも思いました。Mariちゃんはたぶん何も意図していないのかもしれないけれど、私的にフェルデンクライスやり過ぎ注意勧告をもらった感じでした。自分の体への意識を高めるボディワークをやりすぎて、一番近い周りが見えなくなるという本末転倒事件。自分の事ながらとても笑えてきます。

 というわけで、日々の自分の思考様式からいったん外に出る作業というのはとても大切なような気がしています。最近は「ぶれない」とかいうキーワードに少々恥ずかしさを覚える年齢にもなってきましたし。もちろん生きてく上で何かしらの信念を持つ事は大事だと思うけれど、その信念のために躊躇なく変われる人に私はとても憧れています。






20150130

A priori.



 年が明け2月も目前となりました。皆様いかがお過ごしでしょうか?私は年明けとともに身の周りの景色が急に変わり、とても学校どころではありませんでした。借り家がいよいよマーケットへ出されたり、仕事環境も変わったりで、とにかく毎日忙しないです。

 さて、個人的なお知らせになりますが、いよいよ今春からFeldenkrais Teacherとしてグループレッスン:Awareness through Movementを教えることが許されます(わーい、ドンドン♪)。なので近々、emailなりfacebookなりでクラスのお知らせをしますので、どうぞ私自身の勉強のためにも参加していただけたらとても嬉しいです。また、個人レッスン:Functional Integrationのほうの練習も積極的にしてゆきたいので、どなたかボランティアしてくださる方、ご興味が有りましたらぜひメッセージ下さい。

 トレーニングのほうは3年目を目前にして(いつのまに?)、最近はほぼ確定的になっている考えがわたしの中で一つあります。それは、原因と結果(Cause and Effect)の関係性なんだけれども。とにかく人の体に触れれば触れるほど、学べば学ぶほど、ある事とある事を結ぶ線は見えるか見えないかのとても曖昧な線で繋がっているということにほぼ間違いないかなと思えてきました。

 人間の体は現代の医学で分かっている限り、おおよそ200本の骨と、600個の筋肉で構成されています。なので、例えば体のどこどこが痛いだとか、並びにその人の身体の不調、動き方の癖や姿勢なんかは、とても複雑で計り知れない要因が絡み合って表に出てきているということを日々の学習の中でいつも目の当たりにします。そして言うまでもなく、私たち一人一人の体は全く違うのだから、「何かのせいで何かが起きてる」という考えはとても安易であるし、正直原因を突き止める必要さえあるのかな?というところが私の今の着地点です。

 確かにAとB両者の間に関係性はあるのだけど、AからBに辿り着くまでの道のりはとても複雑なドミノのようで、もはや「幻想」にも近い。そしてそれは身体というレベルでなくても、例えば私達の日々の生活で身に起こるいろいろ出来事や、世の中で起きているあんなことやこんなことだって、同じ事が言えるのかもとも思い、不思議な安堵感と少々楽観的な気持ちで2015年をスタートさせたところです。

 今年もどうぞよろしく。

20141203

サッカーの世界

   日本からこちらへ戻って来てちょうど6週間ほど経ちました。物理的に肉体はサンフランシスコへ戻って来ていても、私の頭と心は飛行機のスピードについてゆくことが難しいのか、ようやく太平洋をゆっくりと渡りきり、再び私の身体へと同期されたようです。日本での約一ヶ月間、毎度新しいところへ出かけ、新しい人に会い、そこそこ欲張りな私はひたすらインプット活動に明け暮れていました。サンフランシスコ生活からはあまりにもかけ離れた非日常なので、あれは夢だったのか?と思うくらい、キラキラしているのだけれど薄ぼやけている思い出達。そういえば、シンガポールにもいったはず。とにかくいろいろな事があったのですが、滞在期間中最も印象的だった(=良い意味で頭をハンマーで殴られるような感じだった)出来事を書き出すとこういった感じになります:1、神楽坂「石かわ」でのお料理。2、藤田博史先生の量子論的精神分析WS。3、合羽橋商店街での金物フェア。4、初めて乗った女性専用車両の空気感。5、東京都現代美術館での特別展示:『新たな系譜学を求めてー跳躍/痕跡/身体』、以上の5つです。
 
 1〜5番全てをフェルデンクライスにつなげて書ける自信はそこそこあるのですが(笑)、今回は5番の現美の展示について書こうと思います。この展示は今も開催中で、狂言師の野村萬斎さんをアドバイザーに迎えてのexibitionになります。ざっくり言ってしまうと、人間の「身体」を通して、まじめにアートとパフォーマンスを考えるというもの。古典芸能、ダンス、演劇、スポーツにいたるまで、身体パフォーマンスをテーマとした、絵画、映像、インスタレーションのお祭り展です。コンセプチュアルなものが多かったですが、その中で私が最も釘付けになったものが、サッカー選手のジネディーヌ・ジダンが、試合で見せたプレーや表情をひたすら数十台のカメラで追いかけるという映像作品。元サッカー選手の中田英寿さんによる解析videoと合わせてのセット展示になっているのですが、もう本当に素晴らしかったの一言に尽きます。
 
 私はサッカーというか、全くと言っていいほどスポーツ全般に疎く、あまり興味が湧かないので、このセクションは見る前からスルーだろうな(汗)と思いましたが。結果、一番釘付けになってしまった。大画面いっぱいに写されたジダン選手の動きがあまりにも美しすぎて、ただただ圧倒されてしまっただけでは到底済まされない話。それはアフリカの草原で肉食動物が獲物を捕らえるような、あまりにも生々しい空気感。そして交互に繰り返される必要無駄(フェイント)と無駄一つない優美な身体使い。その後の中田選手の解析インタビューもこれまたBravoでした。恥ずかしながら彼が話している姿を聞くのは初めてだった私なのですが、ものの数十秒で、あ、この人はとても感覚的な人!ということがすぐに分かりました。グラウンド上における身体感覚と空間認知の話、ジダン選手の身体を動かすタイミングとリズム感、意識と無意識、1秒にも満たない0.何秒という時間世界の話を夢中になって聞いた。その場にいなくとも、話を聞いているだけで体感したような錯覚を得た時、もはや私の中でサッカーはただの球蹴りゲームではなく、高い芸術性を含む一種の神聖で神秘的な民族、宗教儀式のように感じた。神が”ボール”に宿る時、その場や空気に独特な緊張がもたらされる。そして選手たちはそのボールを媒介として自分達の身体の可能性を限界まで引き上げる。その事実を頭で理解した瞬間に鳥肌さえたった。あまりに興奮状態だったので、その気持ちのままアメリカ行きの飛行機に乗りたいと思った私は、横でやっていたミシェルゴンドリー展は考える間もなくパスをし、荷物をまとめて空港へ向かいました。

 展示は1月初旬まで。興味がある方にはぜひ足を運んで頂きたいです。特にフェルデン東京の皆様は必見!ちなみに現美のレストランのオーガニックカレー&オムライスは美味しいのでこちらもお見逃しなく〜。美味しいレストランやカフェって良い美術館には欠かせない要素ですよね。Have Fun!




20140913

余白のさきにあるもの

       私の住んでいるベリエリアにはいくつかのフェルデンクライス講師養成学校があるのですが、私は特に何の下調べもせずに、今のところを選びました。ところが実際に蓋を開けてみると、私の師、Paul Rubin氏は期待以上に面白い人で、彼の言う事為す事にとても共感が持てた。初めてクラスに行った時、おそらくこの人は根底にある人間性みたいなものが私ととても近い人なのかもしれないなと思いました。
 
  見た目はずんぐりむっくり、笑顔が絶えないチョコレートケーキが大好きな、やさしいおじちゃん。心理学のバックグランドがあり、フェルデンクライス歴は40年以上、今は亡きフェルデンクライス博士から直々に全てのトレーニングを受けたプラクティショナーの一人でもあります。
 
  彼のちまたでの評判はと言うと、とにかく話しが長い、止まらない、終わらないとのことですが、、、はい、実際にそうだと私も思います(汗) 話が長過ぎるために、「もしも僕がしゃべり過ぎてた際には、どうか何か当たっても痛くないような、柔らかいものを投げつけて」なんて愛嬌のある冗談を言ったり笑 とにかくどことなく愛らしい人!その上謙虚で偏見がなく、いつも直感的で詩的な楽しい話をしてくれる素敵な先生なのです。特にいいなと思うのが、例えば、自分にはもっとも縁の遠いようなもの、一見何の関係もない事柄を話にもってきては別の何かを説明してくれるのですが、それがなかなか面白い。私達聞き手がはっとさせられるような事を言うのが本当に上手な人。思わず心の中で拍手した回数は数知れません。
  
  学期やクラスごとに講師が変わる大学とは違うので、Paulとの付き合いはこの先あと3年も続いてゆきます。1年ほど経った今の時点で既にお父さん?おじいちゃん?とにかく家族のようなそんな感覚が私の中で芽生えています。で、前置きが長くなりましたが。そんな彼が私にプレゼントしてくれたアドバイスの中で最も心に残った出来事を今日は書いてゆきたいと思います。

  それは私がクラスでペアになり、交代でお互いの身体を触り合うを練習していたときの事でした。フェルデンクライスにはプラクティショナーが声のみで誘導していくグループレッスンATM(Awearness through movement)の他に、FI (Functional Integration)というプラクティショナー対クライアント1:1で、直接相手の身体に手を触れながら一緒に動きのレッスンを学んで行くものがあります。まだそれを習いたての頃、私はあまりよく知らない人の身体に触れることにとても臆病だった。そういった類いの職業(例えば、マッサージセラピストや理学療法士等)とは全く関係のない世界にいたし、経験が何もない私は必死になってただ先生のお手本を一生懸命真似ようとしていた。でも何度やっても残念な気持ちだけが残る。正しくできているのか?相手は気持ち良いと思っているのか??ただ触っているだけで実際何もできていないんじゃないか???ということに頭がいっぱいで、気づけば私のフラストレーションは最高潮に達していました。

 そんな私の心情を遠くから見兼ねたのか(たぶん頭から湯気がでていた)、Paulがこちらへ寄ってきて声をかけてくれたのです。How are you doing? その短い言葉を彼が言い終わる前に、私は今にも泣きそうな声でこう言い放った。「正直に言うと、自分に怒っています。自分が何をしているのかもさっぱりわからないし。ペアになってくれた相手に申し訳ない。練習とは言え、相手に全く何もしてあげられてないと思うととても悔しい。」そうすると、Paulはやさしくこう言いました。「あなた以外に自分が人に何もしてあげられていないだなんて言ってるのは誰?誰もいないでしょう。ペアになった相手との間にほんの少しの”余白”を持たせなさい。受け手にだって考えはあるんだよ、そこは自由に入り込ませてあげないと。自分一人で行き急いで完璧なものを提供しようなんてことはしなくていいんだから。遊ぶことを忘れないで、Have fun!」

 その後家に帰ってからも、Paulに言われたことをよくよくと考えてみた。強いて言うと、その「余白」の部分について。そうするとスルスルと私の頭の中で、いろいろな事が紐解けた。「余白」という事を考えた時、そういえば私の好きな絵画や音楽、映画や文学にもきっと同じ事が言えるんじゃないかと。私はいつだって受け手がイメージを膨らますことができる余白のある表現が好きで、小さな頃からもそういったものに惹かれ、たくさんの影響を受けてきたことに間違いはなかった。具体的に言うと、例えばこのSam Francis(大好き!)の絵のような送り手が受け手に何気なく何かを放り投げるような感覚のようなものに。

The Witness of Whale,1957 by Sam Francis
  受け手がその作品に入ってゆける余地があるかないかは、極めてわずかな時間で分かる気がする。そしてその余白はもちろん意図的につくられたものではなく、常に即興的で無意識的なところからきたもの。それはとても東洋的な美意識であるし、日本独自の美学で言えば、「間(ま)」の概念。私達日本人が見ず知らずのうちに感覚的に会得している、多くの芸事や作法に用いられる「間」がその余白に当たるものではないかと思う。

  そんなヒントをもらった翌日から、私は嘘のように人の身体に触れる事が怖くなくなった。それは私の心配事などはどうでも良い事だとがすぐに分かったから。フェルデンクライスの面白さはそのメソッドを超えたところにあるものだとつくづく思うことがよくあります。Paulがあの時私に教えてくれたことは表明上の明白なメカニカルな部分よりも、大事な事はいかにその相手との間に介在しているアートやヒューマニティだったりをどれだけ楽しむことができるかと言うことなのかもしれません。


20140705

脆さという美しさ

“Find your true weakness and surrender to it. Therein lies the path to genius. Most people spend their lives using their strengths to overcome or cover up their weaknesses. Those few who use their strengths to incorporate their weaknesses, who don’t divide themselves, those people are very rare. In any generation there are a few and they lead their generation. ”


-Moshe Feldenkrais
「あなたの中に本当の弱さを見つけて、それに負けてしまいなさい。そこに、あなたの才能を生かす道があります。ほとんどの人々は自分の弱点を克服するかすっかり覆い隠そうと力を尽くすことに人生を費やしてしまう。自らの弱点を受け入れることに力を尽くして、自身を分裂させない人、そんな人は非常にまれです。でも、どんな世代にもそのような人は少しはいます。そして彼らはその世代を導くのです。」
-モーシェ・フェルデンクライス


 この”新しい身体”になってもう実に8年という月日が経って、たくさんの人の助けがあったからこそ今日という日を何事もなく迎えられていることに感謝しています。元気になった今でこそ、それをとても意味のある人生経験として心に置いておくことができるけれども、身体が不自由になったことは確かに私の短い人生においての一大事件であったと思います、、、。本当に自分が生きているんだという事を痛感させられた出来事であったし、ありのままの人間に立ち返る瞬間が幾度となくあった貴重な体験だったとも思います。

 八年前、手術が終わってそのぴくりとも動かない自分の右手脚を見つめることは、当時24歳の小娘だった私には容易に受け入れることができない事実であったのは確かです。今思っても、あの時の自分がいったいどうやってその気持ちに折り合いをつけようとしたのか全くもって覚えてもいません、、、
 
 当時は日常のごく簡単なことでさえ、誰かに頼まなければ何一つする事ができなかった。そしてそれが本当に苦しくて恥ずかしかった。何も自分一人でする事が出来ないという事実から来る劣等感に押しつぶされて、自尊心の欠片もなく、私のself-esteemなんてもうおそらく海の底の底の底まで届くくらい低かっただろうと思います。

 そしてそれに拍車をかけるかのように、周りの人にはstay strong!=強くありなさいと言われ続け(私のためを想ってかけてくれた言葉だというのは十分に理解しています、ありがとう)、とにかく臭い物には蓋ではないけれど、自分が嫌で嫌で仕方ないものから目を背け、その感情を覆い隠すことに精一杯の力を注いでいたし、さらに言えば自分でその思いを覆い隠していることさえにも気づかない”心の麻痺”状態にもなっていたのかもしれません。

 でもこの8年という時を振り返ってみると、、、おそらく私の身体が目覚ましく回復し始めたのは、まさにその自分の脆さだったり、美しくない部分を見る作業を潔くし始めた頃からだったと思います。この”見たくないものを見る作業”、私はフェルデンクライスを通しての試みでしたが、もちろん始めの頃は恐怖以外のなんでもなかった。ただ時間が経つにつれてだんだんと、むむむ、これって実は面白いプロセスなんだなといった感情に変わってゆきました。

 そして調子に乗った私は(私を良く知っている方はご存知の通り)こうなったら、自分の劣等感の裏側にあるものを徹底的に解体してやる〜、と長年にわたって自分の中に押し込んでしまった、恥や恐れや深い悲しみにとことん向き合ってみる事にしました。でも、やはり初めはいつものクセでついつい戦ってしまう。少しでも嫌な気持ちを感じたら、さてどうこれを押さえ込もう、どう克服しよう、、、?という方向にどうしてもいってしまう。でもこれは勝負じゃないから、負けちゃえばいいんだから、とそこに意味があることを自分に何度も言い聞かせながらの道のりでした。

 そのかいもあってか、だんだんと自分を受け入れる体制になって、時間はかかったけれど最終的に本来の「自分」を取り戻せたのだと思います。自身のあるがままを容認したら、「自分はよくやっている」という気持ちが自然に芽生えてきて、自己肯定感に包まれるような感じ。そしてやがてそれが自分への思いやりだったり、愛おしさという素直な気持ちに繋がって、結果的に麻痺の回復に繋がっていったのかなと思われます。



            (fashion at the edge, Caroline Evans, p.189, "Dazed & Confused" photo by Nick Knight)
 

 昔々、旦那さんの本棚を物色していたときに出て来たイメージ。


   私達一人ひとりを”美しく”しているものっていったいなんなのでしょう、、、?


 この写真をを見る度に、それを今一度よく考えてみなさいと問いかけられてるような気持ちになります。