20140913

余白のさきにあるもの

       私の住んでいるベリエリアにはいくつかのフェルデンクライス講師養成学校があるのですが、私は特に何の下調べもせずに、今のところを選びました。ところが実際に蓋を開けてみると、私の師、Paul Rubin氏は期待以上に面白い人で、彼の言う事為す事にとても共感が持てた。初めてクラスに行った時、おそらくこの人は根底にある人間性みたいなものが私ととても近い人なのかもしれないなと思いました。
 
  見た目はずんぐりむっくり、笑顔が絶えないチョコレートケーキが大好きな、やさしいおじちゃん。心理学のバックグランドがあり、フェルデンクライス歴は40年以上、今は亡きフェルデンクライス博士から直々に全てのトレーニングを受けたプラクティショナーの一人でもあります。
 
  彼のちまたでの評判はと言うと、とにかく話しが長い、止まらない、終わらないとのことですが、、、はい、実際にそうだと私も思います(汗) 話が長過ぎるために、「もしも僕がしゃべり過ぎてた際には、どうか何か当たっても痛くないような、柔らかいものを投げつけて」なんて愛嬌のある冗談を言ったり笑 とにかくどことなく愛らしい人!その上謙虚で偏見がなく、いつも直感的で詩的な楽しい話をしてくれる素敵な先生なのです。特にいいなと思うのが、例えば、自分にはもっとも縁の遠いようなもの、一見何の関係もない事柄を話にもってきては別の何かを説明してくれるのですが、それがなかなか面白い。私達聞き手がはっとさせられるような事を言うのが本当に上手な人。思わず心の中で拍手した回数は数知れません。
  
  学期やクラスごとに講師が変わる大学とは違うので、Paulとの付き合いはこの先あと3年も続いてゆきます。1年ほど経った今の時点で既にお父さん?おじいちゃん?とにかく家族のようなそんな感覚が私の中で芽生えています。で、前置きが長くなりましたが。そんな彼が私にプレゼントしてくれたアドバイスの中で最も心に残った出来事を今日は書いてゆきたいと思います。

  それは私がクラスでペアになり、交代でお互いの身体を触り合うを練習していたときの事でした。フェルデンクライスにはプラクティショナーが声のみで誘導していくグループレッスンATM(Awearness through movement)の他に、FI (Functional Integration)というプラクティショナー対クライアント1:1で、直接相手の身体に手を触れながら一緒に動きのレッスンを学んで行くものがあります。まだそれを習いたての頃、私はあまりよく知らない人の身体に触れることにとても臆病だった。そういった類いの職業(例えば、マッサージセラピストや理学療法士等)とは全く関係のない世界にいたし、経験が何もない私は必死になってただ先生のお手本を一生懸命真似ようとしていた。でも何度やっても残念な気持ちだけが残る。正しくできているのか?相手は気持ち良いと思っているのか??ただ触っているだけで実際何もできていないんじゃないか???ということに頭がいっぱいで、気づけば私のフラストレーションは最高潮に達していました。

 そんな私の心情を遠くから見兼ねたのか(たぶん頭から湯気がでていた)、Paulがこちらへ寄ってきて声をかけてくれたのです。How are you doing? その短い言葉を彼が言い終わる前に、私は今にも泣きそうな声でこう言い放った。「正直に言うと、自分に怒っています。自分が何をしているのかもさっぱりわからないし。ペアになってくれた相手に申し訳ない。練習とは言え、相手に全く何もしてあげられてないと思うととても悔しい。」そうすると、Paulはやさしくこう言いました。「あなた以外に自分が人に何もしてあげられていないだなんて言ってるのは誰?誰もいないでしょう。ペアになった相手との間にほんの少しの”余白”を持たせなさい。受け手にだって考えはあるんだよ、そこは自由に入り込ませてあげないと。自分一人で行き急いで完璧なものを提供しようなんてことはしなくていいんだから。遊ぶことを忘れないで、Have fun!」

 その後家に帰ってからも、Paulに言われたことをよくよくと考えてみた。強いて言うと、その「余白」の部分について。そうするとスルスルと私の頭の中で、いろいろな事が紐解けた。「余白」という事を考えた時、そういえば私の好きな絵画や音楽、映画や文学にもきっと同じ事が言えるんじゃないかと。私はいつだって受け手がイメージを膨らますことができる余白のある表現が好きで、小さな頃からもそういったものに惹かれ、たくさんの影響を受けてきたことに間違いはなかった。具体的に言うと、例えばこのSam Francis(大好き!)の絵のような送り手が受け手に何気なく何かを放り投げるような感覚のようなものに。

The Witness of Whale,1957 by Sam Francis
  受け手がその作品に入ってゆける余地があるかないかは、極めてわずかな時間で分かる気がする。そしてその余白はもちろん意図的につくられたものではなく、常に即興的で無意識的なところからきたもの。それはとても東洋的な美意識であるし、日本独自の美学で言えば、「間(ま)」の概念。私達日本人が見ず知らずのうちに感覚的に会得している、多くの芸事や作法に用いられる「間」がその余白に当たるものではないかと思う。

  そんなヒントをもらった翌日から、私は嘘のように人の身体に触れる事が怖くなくなった。それは私の心配事などはどうでも良い事だとがすぐに分かったから。フェルデンクライスの面白さはそのメソッドを超えたところにあるものだとつくづく思うことがよくあります。Paulがあの時私に教えてくれたことは表明上の明白なメカニカルな部分よりも、大事な事はいかにその相手との間に介在しているアートやヒューマニティだったりをどれだけ楽しむことができるかと言うことなのかもしれません。