20140705

脆さという美しさ

“Find your true weakness and surrender to it. Therein lies the path to genius. Most people spend their lives using their strengths to overcome or cover up their weaknesses. Those few who use their strengths to incorporate their weaknesses, who don’t divide themselves, those people are very rare. In any generation there are a few and they lead their generation. ”


-Moshe Feldenkrais
「あなたの中に本当の弱さを見つけて、それに負けてしまいなさい。そこに、あなたの才能を生かす道があります。ほとんどの人々は自分の弱点を克服するかすっかり覆い隠そうと力を尽くすことに人生を費やしてしまう。自らの弱点を受け入れることに力を尽くして、自身を分裂させない人、そんな人は非常にまれです。でも、どんな世代にもそのような人は少しはいます。そして彼らはその世代を導くのです。」
-モーシェ・フェルデンクライス


 この”新しい身体”になってもう実に8年という月日が経って、たくさんの人の助けがあったからこそ今日という日を何事もなく迎えられていることに感謝しています。元気になった今でこそ、それをとても意味のある人生経験として心に置いておくことができるけれども、身体が不自由になったことは確かに私の短い人生においての一大事件であったと思います、、、。本当に自分が生きているんだという事を痛感させられた出来事であったし、ありのままの人間に立ち返る瞬間が幾度となくあった貴重な体験だったとも思います。

 八年前、手術が終わってそのぴくりとも動かない自分の右手脚を見つめることは、当時24歳の小娘だった私には容易に受け入れることができない事実であったのは確かです。今思っても、あの時の自分がいったいどうやってその気持ちに折り合いをつけようとしたのか全くもって覚えてもいません、、、
 
 当時は日常のごく簡単なことでさえ、誰かに頼まなければ何一つする事ができなかった。そしてそれが本当に苦しくて恥ずかしかった。何も自分一人でする事が出来ないという事実から来る劣等感に押しつぶされて、自尊心の欠片もなく、私のself-esteemなんてもうおそらく海の底の底の底まで届くくらい低かっただろうと思います。

 そしてそれに拍車をかけるかのように、周りの人にはstay strong!=強くありなさいと言われ続け(私のためを想ってかけてくれた言葉だというのは十分に理解しています、ありがとう)、とにかく臭い物には蓋ではないけれど、自分が嫌で嫌で仕方ないものから目を背け、その感情を覆い隠すことに精一杯の力を注いでいたし、さらに言えば自分でその思いを覆い隠していることさえにも気づかない”心の麻痺”状態にもなっていたのかもしれません。

 でもこの8年という時を振り返ってみると、、、おそらく私の身体が目覚ましく回復し始めたのは、まさにその自分の脆さだったり、美しくない部分を見る作業を潔くし始めた頃からだったと思います。この”見たくないものを見る作業”、私はフェルデンクライスを通しての試みでしたが、もちろん始めの頃は恐怖以外のなんでもなかった。ただ時間が経つにつれてだんだんと、むむむ、これって実は面白いプロセスなんだなといった感情に変わってゆきました。

 そして調子に乗った私は(私を良く知っている方はご存知の通り)こうなったら、自分の劣等感の裏側にあるものを徹底的に解体してやる〜、と長年にわたって自分の中に押し込んでしまった、恥や恐れや深い悲しみにとことん向き合ってみる事にしました。でも、やはり初めはいつものクセでついつい戦ってしまう。少しでも嫌な気持ちを感じたら、さてどうこれを押さえ込もう、どう克服しよう、、、?という方向にどうしてもいってしまう。でもこれは勝負じゃないから、負けちゃえばいいんだから、とそこに意味があることを自分に何度も言い聞かせながらの道のりでした。

 そのかいもあってか、だんだんと自分を受け入れる体制になって、時間はかかったけれど最終的に本来の「自分」を取り戻せたのだと思います。自身のあるがままを容認したら、「自分はよくやっている」という気持ちが自然に芽生えてきて、自己肯定感に包まれるような感じ。そしてやがてそれが自分への思いやりだったり、愛おしさという素直な気持ちに繋がって、結果的に麻痺の回復に繋がっていったのかなと思われます。



            (fashion at the edge, Caroline Evans, p.189, "Dazed & Confused" photo by Nick Knight)
 

 昔々、旦那さんの本棚を物色していたときに出て来たイメージ。


   私達一人ひとりを”美しく”しているものっていったいなんなのでしょう、、、?


 この写真をを見る度に、それを今一度よく考えてみなさいと問いかけられてるような気持ちになります。



20140429

無為自然

  気づいたら1年目の講師養成トレーニングも終わり、全コースの1/4を履修した時点での私のカラダと心の変化はまずまずです。あえて図で説明するのなら綺麗なlinearな線ではなくて、もの凄い勢いで上がって、そして一気に下がってまた上がるという繰り返し。だけれどもその頂点点を全て線で結んでゆくとなかなかの右上がりなんじゃないかと思います。特に感情面の振り幅がものすごく、いきなりクラス中にまるで小学生のように泣きじゃくる事件が発生したり、、、いつからか”少々お騒がせな人”みたいな立場になってしまいました(汗)ただそのおかげで今まで以上にクラスメイトと繋がれた部分もあったのかと思います。

  さて、本題に入りましょう。前回の投稿で、フェルデンクライスは師弟関係のない自己探求的な学びだと書きました。言い換えれば、プラクティショナーとクライアント(生徒)との間にdialogueこそなくとも、そこにはいつも双方的なコミュニケーションと学びが繰り広げられているということです(又は私がそう勝手に思っている。)

  私自身大学を出てからずっと教員というお仕事をさせてもらっていたのですが(たった5年の教員人生です、ごめんなさい)、自分の経験からこの”双方的な学び”について考えると:「何か教える」ことは「何かを教わる」ことで、逆に「何かを教えられてもらっている」ことが無自覚に「誰かに何かを教えている」という相互作用みたいなものはよくあったのかと思います。でもこの絵に描いたような素敵な掛け合いみたいなものは実にぼんやりとしたもので、そもそも「教師だから何かを教えなければいけない」というエゴを捨てなければ、子供達は何も学ぶ事が出来ないのは本当で、そしてそれをさらにつきつめてゆくと結局「人は人に何も教えられない」というのが私なりの結論でした。

 そしてそんなことをフェルデン修行と重ねながら思い出していた時、昔の雑誌をペラペラとめくっていたら、画家の奈良美智さんのインタビュー記事を目にしました。奈良さんと言えば、”上目づかいでこちらをにらむ少女の絵”と言えば今や誰もが分かる作品かとも思います。そんな彼が学生生活の合間に先生からうけたさりげないアドバイス集がその”素敵な掛け合い”そのものだったので一部抜粋させてもらいます。

   
  ”芝生の上で昼食を食べていたら、先生に「その靴下の色、
 今描いてる絵よりいい色してる」、下宿の部屋を覗かれては
   「いつも描いてる絵より、この部屋全体のほうが奈良だな」
と言われたことが今でも僕の心に深く刻まれています。

       


 教育って、答えを持っている人が、持っていない人にただ与えるものではなくて、答えになりそうなものをお互いにキャッチボールしてゆくことがやはり本来の姿なのかな。

 特別なことをしようとしなくても良い。

いつかプラクティショナーになった時も、この心持ちをぜひ忘れずにいたいものです。
  

20140213

カラダの智慧ー”学び方を学ぶ.”

 フェルデンクライスメソッドを全く知らない人に簡単に説明するにはどうしたら良いのか?というディスカッションはクラス内でもよくあります。メソッドの解釈はいろいろなディメンションからアプローチできるぶん正直難しく、フェルデンクライス歴40年の私の師でさえ時折言葉を詰まらせるくらいです。おそらくプラクティショナーにとってそれは永遠の課題ではないかとも思われます。
 
  私自身も人の言葉を借りたり、自分の頭の中でいろいろ試行錯誤した結果、どうにかこうにか日英で説明できるようになってきた(?)のでしょうか、、、わかりません。でもとにかく手短に言おうとするならば、、、
  
 フェルデンクライスメソッドとは:「各々の人が自分の辿り着きたいゴール(目標)に近づくために、自分自身の体をいかにシンプルに効率よく、どうしなやかに使うかを探ってゆく自己訓練法。」というのが今の時点で一番しっくりくる解釈なのではないかと思っています。

 そして上記の釈義からも見受けられるように、このメソッドから利益を得られる人のスペクトラムというのは職業、年齢、性別関係なく非常に幅広です。現に私の養成学校のクラスメート達のバックグランドも本当にばらばらで、看護士、医師、理学療法士などの医療系をはじめ、マッサージセラピスト、ヨガ講師などのボディワーク系、それから俳優、歌手、パーカッショニスト、ダンサーなどのアート系とバラエティに富んでいます。

 では実際にクラスではいったい何をするのか?

クラスでは主に床に横になった状態、もしくは場合によっては椅子に座って行われ、Awearness Through Movement (ATM)というなんとも堅苦しい名前がついています(汗)横になり自分の体を頭のてっぺんから足先まで観察し、プラクティショナーの声の指示だけを頼りに体をゆっくりやさしく動かしてゆきます。動きのお手本は一切ありません、さらに言えば動き自体に明確な目的がない場合が多いです。というかここがフェルデンクライス醍醐味。耳からの情報だけを頼りにすること、そして生まれたての赤ん坊のように目的意識なくただただ遊ぶように動く事で、自分の中から”自発的”にでてくる体の動き/感覚を察知し、それをドミノの様に広大な学びへと連鎖させてゆきます。

 始めたばかりの頃はもちろんたくさんの戸惑いがありました。初めての授業は全くの「?」で、「いったいあれなんだったんだろ??」という悶々とした気持ちで帰宅。なぜなら見本もなく、筋トレでもストレッチでもないこの全く新しいものをいったい自分の中でどう処理して良いのかが分からず、過去の教育経験において「何かを見て、それに従ってやってみる」ということにどうしても慣れすぎている私は、「正しくできているのかな?」 と”そこ”に気をとられてしまい、全く集中できず、、、。単に自分自身の体の動きと感覚に目を向けてみるということが本当に難しく、思いグセ(習慣)というのはこんなにも私の学びを邪魔するのかと驚いたものです。

 でも「なんか好きだな〜。」という気持ちだけでクラスに通い続けたところ、回を重ねていく度にだんだんと自分の身体(ボディイメージを含む)を自分で緻密に知ることができるようになり、その頃から一つの動作とっても、驚く発見や全く新しい発想が生まれるようになってきました。決定的だったのは、「何が正しくて、正しくないのか」という思考枠から解放されたとき、思うように動かない右半身が実は面白いほど楽に自由に動く!と自分自身で気づいた事だと思います。自分がいつもしていることに”気づく”というのは、私たちが思っているよりもはるかに肉体、感情面への影響は多大なようです。

  それにしてもこの飽きっぽい性格な私が、フェルデンクライスだけは本当によく飽きずに続けているな〜と思うのですが、それを「何故だろう?」と考えた時、おそらくこの一見曖昧で宙に浮いているような感覚的な感じだとか、終わりのないフィロソフィアな身体探求ができるところ、精神的/心理的に作用してくるあたりがきっとツボなんだと思います。あとは何より師弟関係という教育軸なしに、自らの力で”学び方を学んでゆく”この方法が私にはとってはとても合っているようです。

20140105

はじめに

     ソマティックエデュケーション(心と体を分けない身体教育)の代表格の一つと言われる「フェルデンクライスメソッド」ですが、まだまだ世間での認知度はいたって低いように思われます。「フェルデンクライスっていったい何ですか?」と聞かれるたびに毎回wishy-washyととまどってしまっている私ですが、書く事でそれがぼんやりとでも理解できればなぁと思いこのブログを始めることにしました。一つ興味深いと思った事は、フェルデンクライスを通しての「経験」というのが私の想像を遥かに超えて皆さん異なる様なのです。実際インターネットでこのメソッドを検索してみても、どのページも顕著に説明が異なりますし、一緒に養成学校に通っているクラスメイト達も、当然このメソッドの効果に絶対の自信がありながら、各々のメソッドに対する解釈や考え方に大きな開きがある事にとても面白さや不思議さを感じます。なのでこのブログもあくまでも「私」というフィルターを通しての勝手な(?)見解になります。

      実際私自身がフェルデンクライスメソッドを人に説明する時は、自分の病からのリハビリ経験を踏まえてお話をする事が一番明快で皆さんのアタマにすっーと入っていく様です。でも私が最も伝えたいことはリハビリ経験云々ではなく、このメソッドがいかに単なる肉体訓練やエクササイズの類いを超えているかということです。医学的にも科学的にも証明されていながら、とてもユニーク且つ有機的な構造をもった自己訓練法。そこに神秘性など全くないと言う人ももちろん多くいますが、その理論や認識を超えたところにいきつく壮大なイメージが私の中にはあるよう思えて仕方ないのです。今後は具体的な事も含め、いろいろなディメンションから少しずつフェルデンクライスメソッドついてお話してゆければと思っています。どうぞよろしく。