-Moshe Feldenkrais
-モーシェ・フェルデンクライス
この”新しい身体”になってもう実に8年という月日が経って、たくさんの人の助けがあったからこそ今日という日を何事もなく迎えられていることに感謝しています。元気になった今でこそ、それをとても意味のある人生経験として心に置いておくことができるけれども、身体が不自由になったことは確かに私の短い人生においての一大事件であったと思います、、、。本当に自分が生きているんだという事を痛感させられた出来事であったし、ありのままの人間に立ち返る瞬間が幾度となくあった貴重な体験だったとも思います。
八年前、手術が終わってそのぴくりとも動かない自分の右手脚を見つめることは、当時24歳の小娘だった私には容易に受け入れることができない事実であったのは確かです。今思っても、あの時の自分がいったいどうやってその気持ちに折り合いをつけようとしたのか全くもって覚えてもいません、、、
当時は日常のごく簡単なことでさえ、誰かに頼まなければ何一つする事ができなかった。そしてそれが本当に苦しくて恥ずかしかった。何も自分一人でする事が出来ないという事実から来る劣等感に押しつぶされて、自尊心の欠片もなく、私のself-esteemなんてもうおそらく海の底の底の底まで届くくらい低かっただろうと思います。
そしてそれに拍車をかけるかのように、周りの人にはstay strong!=強くありなさいと言われ続け(私のためを想ってかけてくれた言葉だというのは十分に理解しています、ありがとう)、とにかく臭い物には蓋ではないけれど、自分が嫌で嫌で仕方ないものから目を背け、その感情を覆い隠すことに精一杯の力を注いでいたし、さらに言えば自分でその思いを覆い隠していることさえにも気づかない”心の麻痺”状態にもなっていたのかもしれません。
でもこの8年という時を振り返ってみると、、、おそらく私の身体が目覚ましく回復し始めたのは、まさにその自分の脆さだったり、美しくない部分を見る作業を潔くし始めた頃からだったと思います。この”見たくないものを見る作業”、私はフェルデンクライスを通しての試みでしたが、もちろん始めの頃は恐怖以外のなんでもなかった。ただ時間が経つにつれてだんだんと、むむむ、これって実は面白いプロセスなんだなといった感情に変わってゆきました。
そして調子に乗った私は(私を良く知っている方はご存知の通り)こうなったら、自分の劣等感の裏側にあるものを徹底的に解体してやる〜、と長年にわたって自分の中に押し込んでしまった、恥や恐れや深い悲しみにとことん向き合ってみる事にしました。でも、やはり初めはいつものクセでついつい戦ってしまう。少しでも嫌な気持ちを感じたら、さてどうこれを押さえ込もう、どう克服しよう、、、?という方向にどうしてもいってしまう。でもこれは勝負じゃないから、負けちゃえばいいんだから、とそこに意味があることを自分に何度も言い聞かせながらの道のりでした。
そのかいもあってか、だんだんと自分を受け入れる体制になって、時間はかかったけれど最終的に本来の「自分」を取り戻せたのだと思います。自身のあるがままを容認したら、「自分はよくやっている」という気持ちが自然に芽生えてきて、自己肯定感に包まれるような感じ。そしてやがてそれが自分への思いやりだったり、愛おしさという素直な気持ちに繋がって、結果的に麻痺の回復に繋がっていったのかなと思われます。
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