柔道家、三船十段の映像です。 確かな柔道の心得と経験を持ったフェルデンクライス博士でさえ、 初めてこの三船氏の動きを見たときに「 これはただの馬鹿げた演技だろう、 こんなものにつき合ってられん!」と思ったらしいのです。 だけれども、 それが後に彼自身の考案したメソッドに多大な影響を与え、 結論として「力が強い者が勝つではなく、 よりまわりとの統合性の高い者が最後には勝つ」 という考えを導き出しました。
さて、話は変わって一昨日のことです。私の親友ワカちゃんが、
井上さんは即興Jazzミュージシャンの傍、わらべうた(
そして彼は現在、岐阜県の郡上八幡に住まわれていて、
井上さん:「人間って衣・食・住だけで生きていない。 精神的なものも内在していて、 そしてそれが住む場所によって大きく影響される。 具体的な暮らしの知恵はもちろん大事だけれども、 自然のきらめきや移ろいから物語が生まれるんですよね。(中略) 自然に放り込まれるということは、 いろんなものとの介在があるんです。そこにはものすごい「 あやふやな型」があって、 例えば一歩間違えば死んでしまうような、そんなぎりぎりを味わいながら子 供達は遊ぶのが楽しいしいんです。川があり、草があり、 山があって、子供たちがそこでありとあらゆる実験を経たときに、 はじめて創造的なものをプロデュースできるんじゃないかと思ってい ます。」
彼の話を全てここに書き出したいくらいですが、この箇所が 一番今の私にとってはとても印象的だった。
私の幼少期の原体験として、”
身の危険なんてたかが知れていて、車に轢かれないようにとか、 電車は白線の内側で待つようにとか、 名前も顔も知らないおじさんについていってはいけないとか、、、。詰まるところの「とても簡単で明確な型」 の中で育ってきたのだ (”自然”とは対義的なニュアンスで井上さんもそう述べていた)。今振り返ると大きな一つの社会のシステムの中で、他にオプションがあることさえにも気づかずに、大きな力の渦 に巻き込まれて生きていた。自分が自分であることも忘れ、 特にこれといった身体を通しての学びもなく、 感覚統合的に見たらとても乏しいとも言える環境の中で育ってきたのでは ないのかな?
だから内心大自然に囲まれて育った人がうらやましいところもある 。 自然風景のひとつひとつからの感動は自分の心の中しっかりと蓄積 されてゆくものだと思うし。そしてその美しさ/危険をはらむ” あやふや” な場所に身を置くことは自分の身の程を知るには恰好な場であるこ とに間違いないからです。
さて、話が遠回りになりましたが、、、
さて、話が遠回りになりましたが、、、
三船十段(当時73歳) がビデオの中でいとも簡単に大男を投げ飛ばしてしまえる理由はもうわかりまし たよね?
”統合性が高い”という意味は、 人が一人間としていかに自分が機能しているかに注意が向いてるこ とだと私はフェルデンクライス博士の本などを読んでそう理解して います。そして自然の中に身を置くことは、 それを全うするのにはとても良いセッティングであると断言できます。
けれど結局の所、 今自分が行ってることに気づきさえできる環境と条件さえあれば、人はそのポテンシャルを最大に引き出して、 止むことなく成長し学習し続けることができるということです。
井上さんの場合、そのプロセスは自然に身を近づけること、 そして「歌を唄うこと」だとラジオ内ではっきりと言及されていた。三船先生の場合は、それが柔道という道を極めることだった。そして私は言うまでもなく「フェルデンクライスメソッドを学ぶこと」、それに尽きます。
要するになんだって良いのです。そして何個あったって良いのです。
あなた自身を「終わらない学習」へと導いてくれるもの、、、 それらはいったいなんですか?
あなた自身を「終わらない学習」へと導いてくれるもの、、、
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